「チッソ肥料」補足  他国の有機栽培法 「Summer Furrow System(休耕蓄養方式)」について

さつじんに公約に農業政策として「チッソ肥料」に関する規制を掲げておりますが、関連して多少補足いたします。

日本の農業の現状として、国土、特に農耕可能地の面積が狭い少ないという事情から、「チッソ肥料」はじめ「リン酸肥料」「カリ肥料」など化学合成肥料なしでの農耕はしておらず、人工のインスタント施肥で農地をフル回転しなければ生産が追いつかなかった時期の方針のまま、化学合成肥料を多用した農耕栽培を産業の主流としております。

世界的な有機栽培の現状として、各国の国土事情も農業事情もまちまちであるため、まだ統一的な基準はありませんが、『有機栽培』『有機農法』の概念として大体の処は、大自然の恩恵たる滋養を最大限に享受する農耕栽培をさし、人体に最大限に有益な農作物生産方式を意味しています。

遠い未来に人類の科学技術が、大自然の造詣に並ぶことが全くないとは限らないのですが、私個人としては、まず不可能でありえないものと想像し予測しております。どんなに人類が技術を極めた処で、人間の営みなど大自然の驚異の前には芥子粒にも満たないちっぽけな存在であり、人工品が天然物の精緻に及ぶことなど有りえないと考えてます。或いは、遥か未来に大宇宙の謎が解明される機会があったなら、それは、時空というすべての存在が消滅するとき、決して解明されてはならない謎ではなかろうか、その時に私たちの子孫が幸運に恵まれ乗り切れることを祈ったりしております。そして自覚する訳ですが、まだ現代において宗教の需要は耐えておりません。

がちょーん☆ ちょっと、話、変わります。

2015年12月17日、つい先ほど、某テレビ番組で「パプアニューギニア島」の文化について紹介していましたが、これって半世紀前の話ではないの? 恐らくほぼ50年以上むかしのまま(?)殆ど異文化感化されることなく(?)こうも見事に頑固に原状保存されているものかと驚愕される内容で、正直な処、愕然としました。

私が余りにも無知だったか?! あれ、ほんと?! 今、ほんとに今、ほんとのほんとにああなの?! (誰かの陰謀で視聴者だましてねえか?)と疑われますが。

文化内容の隔たりがありすぎて相互理解が成立するとは考えがたく、彼らなりの独自のスタイルで独自の文化を守っている生活へ冒し介入するべきではなく、当面は、そっと見守るに留めたほうが良かろうという感慨に襲われ、いまどき日本のごく近所にガラパゴス文化圏が残っていたことに逆カルチャーショックを受けました。

しかし思うのですが、彼の番組出演のパプアの皆さん、しっかりカメラワークを意識されておいでのご様子と見受け、観光資源化した文化スタイルを映像上に演出されていても、実生活は別だったりしていませんか? (視聴者だましてる?)

私にはどうも信じ難いのですが、大戦降伏後70年の日本の現状と併せ考えれば、然程不思議でもないですか… 海に隔てられている閉鎖地域は、異文化の影響を受けにくく変わりにくい性格を持ちますよね、確かに。

ガラパゴス圏は、それとして尊重し、彼らの主義や方針を見守るべきであり、わたしめ個人企画「平和党」の政策は西洋東洋近代科学化圏にて推進しようと考えます。彼の島の皆さんが大自然との均衡調和を冒すことなく暮らしておいでの処へ、こちらの西側「先進」諸国からは自然境破汚染破壊の多大なご迷惑を及ぼす処、大変申し訳ないです。西側諸国の「近代化」については、自滅方向への技術展開を愚かと猛省し、見直しと修復再生を要します。

閑話休題。

世界的に百年ほど他に先んじて他国で採用している有機栽培農耕法に、『 Summer  Furrow  System (休耕蓄養方式)』があります。この方式は、国土面積的に農耕可能地に恵まれている複数国で実施しておいでの由で、一期、農作物を育てて収穫したら、次の年は耕作を休み雑草木が自然に生やすにまかせ、充分育った草木を土壌へ有機堆肥として混ぜ込んで発酵熟成させ滋養分として取り込み、地力を活かした天然由来の有機肥料により栽培する農耕方式です。

先だってテレビで国内耕作放棄地・休耕地の特集があり、北杜市さんで産官学民一体の農政改革に、野菜工場運営に名乗りをあげ始動したという放送内容でしたが、私は、問題を認め憂慮しております。日本の耕作可能地で、敢えて「太陽光発電式 野菜工場」「水耕栽培」を実施する必要はないのです。土光栽培可能地で、 土耕栽培の恩恵を徒に捨てる事業内容で、理解しかねます。

個人企画「平和党」推進の主政策『地球規模の公共事業・大陸砂漠地緑化・森林都市建設-オアシス-計画』中に、砂漠に近代科学技術の水を投入し、一例として太陽光発電稼動の野菜工場の建設を挙げていますが、これは、水の便も、土耕栽培の可能な土壌もない、砂漠だから意味のある技術の活用です。日本国内の活用しうる土壌の恩恵をムダにして、滋養面で土耕に劣ると確信される水耕栽培を採用する必要性は全くなく、収穫される生産物を食する人が得られるはずの最大限の大自然の恩恵を活かさず捨ててどうするというのですか。

私には、日本の国民を一途に弱体化させる亡国の陰謀かとさえ危惧されます。ただでさえ、自民党の長期政権下に、日本の食文化の多くはインスタント化され、摂りうる栄養分は加工で損なわれ、他方、水道飲料水も農産物も食品も、化学薬品製の食品添加物、発がん性物質漬け状態で、国民の健康被害は少なからず生じています。人口減少にも拘らず、胎児の不妊、死産、障害奇形、難病、アレルギー、アトピー、癌疾患、ほか、罹患者は年々増加しています。

大自然の調和は、すべてのものが存在の意味をもって均衡を保っています。人智の及ばぬ未解明事項は無限に近く膨大にあります。人類は価値も解さず自然環境を破壊してきましたが、大自然の偉大な生命力を謙虚に学びなおす時期に来ています。

「パプアニューギニア」文化は、農業政策とは別問題で、同島の始原呪術の男性優遇傾向が極端に昂じた有り様について、過去に大日本帝国の軍事侵攻と接点を持ったことで、「男尊女卑」の偏向伸張に陥ったのではと疑われたり、所感はありますが、ヨソはヨソ、ウチはウチ、ヨソさまの特異な文化形態は、ウチの問題点とは基本的に無関係です。明治維新以降、敗戦まで、日本の女性には、選挙権、被選挙権とも参政権が認められなかったこと、日本の女性の社会的地位は、家畜未満の奴隷人足であり、無給の人手であることを基本として、もちろん人権はないし、つい最近になっても、男性政治家が「女性は子供を産む機械(道具だったか?)」だと述べた件がありました。まだ日本の一部男性の意識の中で、女性は「奴隷人足」ですらないのです。

肝腎な所が後回しになりましたが、日本の農業生産の展望として、狭い耕作地における収穫物で如何に産業として成立させるか、第一に考えねばならない点です。「TPP」等、市場の国際的解放が進んでいますが、これは社会情勢として抗い得ない方向であり、アメリカ産の「米」が、品質的に日本産と互角である以上(味覚的にも安全性も勝るとも劣らず、尚且つアメリカ産は大規模集約方式の合理的生産により半値以下の低コストを実現する低価格だという日本の稲作専門学者の話です)、農政の転換は時代の要請として向き合わねばならない問題であり、むしろ遅すぎるくらいです。

現在、世界には、丁寧な作物作りをすれば、農作物の品質が価格として反映される流通基盤が築かれています。テマヒマを惜しまず最高品質の最高級品を作るのです。高値に見合う品質の農作物を提供すれば、狭い耕作面積でも経営は成り立ちます。

日本は他国に比して国土面積が非常に狭く、耕作可能面積も更に僅かです。少人数に限って掻き集めたとしても大した広さにはなりません。アメリカの農園主の皆さんがなさっている大規模集約農業は、実現不能だと思います。生産効率が低いうえに、従来の化学肥料と農薬漬けのインスタント農法では産業壊滅は必至です。

もっと良い案があれば、そちらを採択いただくとして、私がシロウトなりに思考する処は、土中の微生物の均衡が育む土壌の滋養を活かすべきであるという観点です。人工的に即席加工した化学肥料、農薬の類は極力使用を控え、バクテリアや無数の土壌菌など小さな生命の営みがつむぎだす大自然の恵みを大切にするべきではないか、という原点の見直しと回帰です。

私は、大自然の精緻な調和の中に無駄な存在はなく、すべての命がなんらかの有用な働きを為して存在の意味をもっていると想像します。人間の浅薄な誤解が、例え一時どんな不要視有害視する間違いを犯したとしても、愚かな人間が真価を理解していないというだけで、存在している者は必ず存在の意味働きを有しているのです。

明治維新以降、西洋文明を遮二無二に取り入れて以来、特に、昭和期敗戦後の諸公害はじめ環境の破壊と汚染の甚だしさは深刻です。先にも言及しましたが、今、国で大々的に規制をかけても、先々数十年は日本の癌疾患者は減らないと想像します。

太陽光発電稼動の野菜工場を日本国内運用についても、必ずしも一概に否定はしませんが - 現在、日本国内で化学物質過敏症などの難病を患っている方が増えており、この病気の方は農薬を使用した農作物や食品を食べられません。生命に関わる窮状に置かれておいでです。なので、さしあたって国内に完全無農薬生産作物のニーズは少なからずあり、造っていただくことは歓迎いたします - めざす方向性として、農耕の可能な土地が存在する場合は、土壌の滋養を最大限に活かした作物づくりを行うことが、日本の国土事情に適切と考えます。

農業の専門家に言わせると、農薬を使わない農作物生産なんてゼッタイに不可能、ありえない、ぜんぶ虫に食い尽くされてしまうから収穫がゼロになる、農業を何も知らないシロウトが考えることだ - そうなので、私の主張はシロウトの極論であることを念のため補足申し上げておきますデス。

現在、この課題についても、まだ私なりに調査検討中につき中途報告的な主張で申し訳ないのですが、 - 実は、全世界の専門家、研究家、事業者の皆さん方のご意見を広く伺いたい気持ちはありますが、議員就労はしそこなっているし、そういう就労先や雇用希望者も全く見当たらず、そういった立場ではないし( 略 )、既に現政権党の若手議員が大々的に全国を調査行脚しているとテレビで頻繁に報道しており、私の出る幕ではないし、こんな分かりきった持論を展開しても馬鹿げているかという気もして、嘆息いたしつつも、声をあげれば民意の表明となり、それなりの意義はあるのだ! と思うことにしておこう(ごめんなさい、嘘です。現政権に罪過を改める意志はなく国家犯罪を一途強行しており、意見や抗議は有意な発想を盗用悪用されるだけなので、悪徳政党へ犯罪の手口や材料資源を与えない対策が必要です。自民60年の悪政を国民が団結して糺さねばならないです)

私と似たようなことを言っている人は何千年も前から膨大に存在するし、私の見解と言うのは、人類史的に見れば、申し上げるまでもなく、ごくごくありきたりの平凡な一般大衆の弁論だと思います。無数の先人と民衆の努力で、ものが言える時代が保たれているのだと恩恵をかみしめています。皆さん、ありがとうございます。

※ 半分、というか、全部、ほんとですが、全部、うそです… ごめんなさい…

「モノが自由に言える時代」なんて未来永劫ありえない。本当は、そう思います。なるべく、極力、そうあるように努めるべき「目標」であり「理想」ですが、社会に実現されることは常になく、けれど常に忘れず目標として心に掲げておくべき社会の理想です。たとえどんなに突き詰めても、社会には常に必ずモノの言えない立場や事情の人が存在すると、疑問や可能性を忘れない思慮視点を持つこと、謙虚な反省を忘れないこと、心の耳を閉ざさないこと。抽象的な教訓論ですが、そう思います。

今、日本社会であまりモノは言えません。一昨年2014年6月頃より「憲法9条護守」の見地から提言してきましたが、自分ではそのつもりでしたが、現政権関係者に、憲法9条の無効化、交戦権回復、戦争の推進に散々盗用悪用されており、反自民派、9条護守派の皆さんに大変申し訳なく思っています。モノを言うにも盗用悪用されないための自衛策が必要かもしれないです。

 

アメリカの卵の黄身みたいなくたびれはてたお疲れキャラ、あれ、なんか私に似てるなー… と共感しました。私だけでなく、現代人て、案外、皆さん、みんなあんなカンジでお疲れかな。言葉のアヤ、意図する趣旨があって表現のうえで「腹が立つ」とか書いても、そうした気力とか、どこか根本的に欠けてるような…

※ 訂正追記「アメリカの」キャラではなく、先ほどテレビで見て知ったのですが、現在TBSテレビで番組採用されている『ぐでたま』という日本のマスコットキャラクターでした☆ つい先日、居間のテレビ前を通りぎわに「アメリカでも日本と似たような感性があるんですねー」とコメントしていた番組を見て、(このごろのアメリカのキャラか)と勘違いしていました。40年ほど昔の海外アニメ作品『ターザン』に、『ヒューヒュー & ポーポー』というクリーム菓子か、アメーバ・スライムみたいな、食べたらおいしそうな、かわいいキャラが出ていました。これが、傾向的に外観に『ぐでたま』と似たカンジがあって、アメリカのキャラと勘違いするのに違和感なかったです。「文化の多様性」という点では、アメリカ文化は古くから充実しています。なんせ『人種の坩堝(るつぼ)』移民建国の民主主義の最先端の本場です。それぞれ何処の国にも文化の持ち味があるので、カチ・マケ(勝ち負け)、ユウ・レツ(優劣)という評価基準に当たらない性格のものです。

人としての友愛、信義、あるべき公正な相互尊重、自然な美徳が成立しない土壌や風潮の社会では、「文化交流」は途絶えてしまいます。

不実悪質な犯罪嗜好、殺戮嗜好の相手とは、カネを積まれてもお付き合いは御免こうむる のが普通です。何とどんな戦いをしている状況にあるか、相手の立場や事情にもよりますが。日本の内閣総理大臣 伊藤博文の人物像に印象として持っている所感ですが、「人間として幼い(おさない)」と思います。敗戦当時の「日本人」の国民性について、当時のあるアメリカ人が同様の表現をされていますが、「幼い」と感じる最たる点は、伊藤の行動の随所に見受ける「利己主義」「排他性」です。『富国強兵』について、自民党政権の日本政府では、あたかも壮大な目標設定であるかに喧伝しているため、錯覚し混乱している人も見受けますが、暴力主義の賛美奨励は貧困を助長しただけです。思想的な浅薄が悲劇の始まりでした。まだ私たちは150年の悪夢を解消していません。日本人の課題であり解決に向けて検証する必要があります。

考えてください。自分の頭で考えて答えを出す努力をしたことがなく、する意志もない人たちに、「政治家」は勤まらないと思います。「人間として幼い」、反省も成長も見込めない。他の職業なら自由でも、国の代表という最要職の権限を悪用し「殺人」を犯すのでは、既に膨大な被害者が出ている社会損害以上に、当人も不幸です。誰のためにもなりません。

話は替わっています。ここ最近、半世紀くらい昔なら、気にくわない相手と拳でやりあうことや、金品的な必要に迫られての犯罪はあっても、有無を言わざず、凶器 - 銃規制の国柄、サバイバルナイフや包丁ですが - で、殺害してしまうというのは、違ったのではと感じる事件がわりと起きているように思います。人間性が、刹那的、短絡的、無思考に陥っており、画一強制に時間の枠組みで生活を切って追い立て、結論ばかり急ぎすぎてきた150年のツケがきているのでわ? 気のせいかな…